1本の電話から繋がった話は 北陸1といえる名彫金家 鳥田宗吾先生と、私が北光生先生に彫りを師事し、同じく彫りを教えていただいた 日本伝統工芸会の正会員である佐野宏行先生との夢のような技術の競演といったものでした。私が胸を詰まらせた巨匠達の会話に耳を傾けたひと時はブログで紹介するには神秘とも言えるものなので秘密とさせて頂きます。
初日は富山県高岡市オフィスパーク5番地にある高岡市デザイン・工芸センターでの桂盛仁先生の講演会でした。私は最寄が大宮駅なのでそこで合流し、朝が苦手な師匠は朝寝でした。子供と離れるのが辛かったです。
私は不安でした。
会場に人は集まるのだろうか。
翌日、翌々日は実技です。 西の人達が快く東の人間を受け入れてくださるだろうか。富山は西の気質なので、排他的な傾向が強く秘密主義でもあります。
高岡駅で約束の時間より30分も早く着いてウロウロしていたら工芸センターの所長さんがピカピカの新車に乗ってお迎えに来てくださいました。所長さんはハンサムな上にダンディなのですよ。
会場には新聞の取材が2社あり、部屋は満席でした。
それにまずほっとしたのと、10年以上前に北先生に彫りを習っていた時の門下生の姿と後輩の姿も見えてお互い続けられてきたんだなあと思いました。
講演会は無事に終わり、質疑応答の時は熱心な方々がずーっと質問を続けられていました。高岡も明治時代から現代にかけて、彫金の頂点を極めていますが 桂先生のように一枚の大きな板で高肉とし、更に象嵌を入れていくものは恐らく無いです。そして、桂一門は代々色使いが華やかです。
その後、場所は高岡市内の居酒屋へと移り、工芸センターの方々、先生方と高弟子5人、温かくて和やかな歓談が夜の11時ごろまで続きました。
鳥田宗吾先生はずっと1匹狼でいらっしゃったので日本工芸会に所属されておられれば間違いなく人間国宝だった方だと思います。現在は古希を過ぎられて弟子の育成に力を注がれています。どの先生も、子供が跡を継ぐといえばこんなに教えないと話されていました。佐野先生も惜しみなく教えてくださいます、現役作家の言われることを私達は一言も漏らさずに頭に入れなくてはいけない。宝の言葉の数々でした。
金属という存在と性質に魅了されて居るときに出会った北光生先生。鏨一本で生きてこられた 北光生先生の生き方に憧れたものです。顔立ちが良くて背がすらっとしていて声も良い昭和一桁の先生。適当に削っているようであれよあれよと出来上がる毛彫り鏨に目を丸くしたものです。
ウチのはるちゃんが彫金を継ぐというなら私は銀座での仕事の内容を変えていかねばならんなあと思いますね。
桂師匠にはお子さん(もう大きいです)が3人いらっしゃいますが 跡を継いだ方はいません。
私は師匠には出会った時から、孫に正確に伝えて欲しいと頼まれています。だからお目付け役として白羽の矢が当たったというより、串刺しにされた気分です。
高岡の彫金家の子供達は医師や女医になる確率が高いのですが・・・
それは12代も続いている桂の血筋を絶やす訳にはいかないですね、親の気持ちは子供を持って私は分かるようになりました。私は師匠の意思を継いで行く為に、徐々に仕事の内容を変えていくつもりです。

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所長かっこいいです!ヤギも大絶賛!
あ、でも大きくなったはるがこの記事で誤解しないように書き添えますが ママはパパが一番大事ですよ~
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